2013/07
教育者 豊田芙雄子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 9 ]


水戸を訪ねる
 6月の梅雨の晴れ間の一日、水戸を訪れた。水戸駅前で水戸黄門と助さん角さんに挨拶し、駅の北側の水戸弘道館公園に“やっと”たどり着いた。JR水戸駅の観光案内所で市内地図を貰ったものの、観光の街としては行き先案内が親切とは言い難い。
 弘道館は徳川斉昭が設立した藩校で、漢学のみならず窮理(物理学)や舎密(化学)、地理、天文などの洋学を教える、今で言えば総合大学である。2年前の東日本大震災で壊れた建物を修復中であったが、旧藩校では最大の遺構であると窺い知れる規模である。
 弘道館のある所は旧三の丸で、向かい側に水戸城址がある。城址に通ずる橋の手前に幕末の名君9代藩主徳川斉昭公の銅像があり、橋を渡ると初代藩主徳川頼房公の銅像がある。城跡は茨城大付属小学校や付属幼稚園、水戸第三高等学校や第二中学校などの教育施設になっている。
 市役所前の通りは官庁街で、暫く西へ歩いたところに水戸第二高等学校がある。校門の脇に豊田芙雄子の銅像が建っている。
 次に訪ねたのが徳川ミュージアム、旧彰考館徳川博物館で、水戸徳川家に伝わる文物が常設展示されている。
 徳川斉昭自筆の諸物帳、研究したボルタの電池、自ら指導した反射炉の模型なども展示してある。しかし、幕末の水戸藩にどのような西洋科学の研究者いたか知らない。学芸員に尋ねても、これから文科省の調査費を得て研究する所であるという。
 藤田幽谷、藤田東湖などに関する展示品は残念ながら見当たらなかった。

)明治の三大ベストセラーは@福沢諭吉:西洋事情、A内田正雄:與地史略、B中村正直:西国立志編

幕末の水戸
 水戸徳川藩の第2代藩主徳川光圀公は大日本史編纂事業を始め、水戸徳川家はこの事業を大切にして継続し、幕末から明治まで続いた。大日本史編纂事業の史局は彰考館と呼ばれて江戸の水戸藩邸内におかれ、これが藩財政を圧迫する金食い虫となったといわれている。水戸徳川家は将軍を補佐する御三家の筆頭で、彰考館には全国から人材が集まり、優れた学者を輩出した。
 彰考館総裁藤田幽谷は民間出身ながら優れた思想家で、神道を重視する尊王敬幕を主張し、弟子たちには合沢正志斉、藤田東湖、豊田天功などがいた。
 幕末、西南雄藩の尊王攘夷運動は討幕へと突き進むが、震源は水戸徳川藩である。吉田松陰や西郷隆盛たちは水戸学に共鳴し、幕府が開国を強行したため尊王討幕へと傾斜していった。
 第8代藩主徳川斉脩に子供がいなかったため、藩内の門閥派と改革派が次期藩主を巡って激しく争い、改革派は血統を重んじて斉脩の弟徳川斉昭を擁立した。
 藤田幽谷は改革派の旗頭であり、息子の藤田東湖は斉昭の側用人として活躍する。


豊田芙雄子の生い立ち
 芙雄子(ふゆこ)は弘化2年(1845)に父桑原信毅、母雪子の長女として水戸で生まれた。父は藩主側近の重臣で、斉昭が幕命で謹慎蟄居を命じられたため、同様に蟄居を命じられた。母雪子は藤田幽谷の娘で、東湖の妹であり、芙雄子は伯父東湖に可愛がられて育ったと云う。
 芙雄子は18歳で豊田天功の息子豊田小太郎と結婚した。小太郎は東湖の後継者と見込まれ彰考館総裁代であった。親族には藩の重臣や学者たちが多くいたが、当時の水戸藩は天皇からの密勅問題で、大老井伊直弼ら幕閣と熾烈な争いの最中であった。藩の重臣藤田東湖は謹慎の身となり、夫小太郎は京都で暗殺され、母も病死して芙雄子は寂しい境遇であった。
 このような環境で、元の名「ふゆ=冬」を芙雄に改め、女性ながら漢学塾に通い和漢の書籍の勉学に励んだ。女子としての礼式や裁縫、更に武芸も学んでいる。


幼児教育の先覚
 若くして未亡人となった芙雄子は、明治3年私塾を開いて近隣の子女の読書教授を始めた。明治6年には水戸に発桜女学校が開設されて芙雄子はその教諭に迎えられる。
 明治8年に我が国初の女子高等教育の機関である東京女子師範学校が開設され、豊田芙雄子は読書教員に招聘された。校長中村正直は幕末に幕府より欧州に留学を命じられた知識人で、明治の三大ベストセラー()の「西洋立志編」で有名である。翌明治9年には師範学校付属幼稚園が設立されて保母専務心得となる。我が国幼児教育の始まりであり、保母第1号である。
 世界で最初の幼児教育はドイツの教育学者フレーベルの始めたキンダーガルテン(Kinder Garten)で、幼児教育の祖と云われている。
 東京女子師範学校付属幼稚園は摂理(校長)が中村正直、幹事関信三、首席保母松野クララ、保母豊田芙雄子となっている。松野クララは農商務省の林学者松野礀と結婚したドイツ人女性である。松野クララはフレーベルの保母学校で直接指導を受けた女性であった。東京女子師範学校には保母練習科が設けられて、松野クララや豊田芙雄子が指導に当たった。
 明治12年には西南戦争で荒廃した鹿児島の復活を期して県立幼稚園を開設することとなり、豊田芙雄子は文部省から出張を命じられた。鹿児島では幼稚園の建屋設計から施工、保母の教育・指導、幼稚園の運営まで全てを指導した。
 翌年東京に戻り、東京女子師範学校教諭に復帰し、明治20年まで付属東京女学校や共立女子職業学校の教員を兼務した。
 明治20年に旧藩主徳川篤敬侯爵がイタリア全権公使となり、渡欧する侯爵夫人の随員を命ぜられた。在欧中に文部省より「欧州の女子教育の調査」、「欧州実業教育調査」を命じられてフランスを始め欧州諸国を調査している。
 明治23年に帰国した豊田芙雄子はヨーロッパの女子教育を念頭に私塾翠芳学舎を開校した。しかし、東京府の要請で府立第一高等女学校教諭となり、文部大臣西園寺公望公の要請で栃木県高等女学校の教諭・校長代理になるなど、明治政府や地方政府、旧水戸徳川家などの意向に左右された。教育者としての実績を積みながらも封建的遺風から抜け出ることができなかったのは、彼女の限界でもあった。
 その後、栃木県師範学校、水戸高等女学校、水戸女子師範学校、水戸大成女学校(現茨城女子短期大学)など一貫して女子教育に携わり、大成女学校校長を83歳まで務めている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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